みなさま
中高の頃から友達のしばっちと、久しぶりに会おう、てなって、いよいよ今週やけど何食べる、てなり、私がこのタイミングなら、身体が肉を欲しているので、鶴橋はどうや、と、焼肉へ。
しばっちは、私の友達の中では珍しく、結婚していて子供がいます。しかもめちゃんこ働いていて、この日も日曜なのに、仕事してきた、と言いながら合流。
きけば、私よりも残業時間多いぞ。
朝早く出て頑張ってるんやって。すげーよ!
そんなん言うたって、子供おってもたら、やらんと回らんもんな。がんばってるんやな。
と、他人事として、また可能性としてなくはないかもしれない将来の参考として聞きつつ焼肉。
ランチでいける鶴橋の有名店はそんなに多くなく、あそこは?ここは?と言ったところが大抵夜のみの営業の中、吉田は昼間やっていました。
昼なら吉田はどうよ、と、あらかた決めて、しばっちと、ええんちゃうん、と言いつつ、ある日帰ってきた巨匠に、週末の昼吉田に行ってくる、と言ったら、巨匠が、うまいけど高いで、と教えてくれました。
アカセンがうまい、と、テレビで見たそう。
ハラミもうまいで、奈良の牛食べられるで、と、巨匠。
奈良の牛なんか聞いたことないわ、と、神戸牛のふるさと兵庫出身のわたくし、巨匠に率直に言ってみました。巨匠曰く、奈良はな、聖徳太子が牛食べたらあかんで、て、言う前から牛食べとった、と、言うことだそうです。
さて、吉田。
しばっちが、なんかのサービスを使い、予約してくれて、やって来ました。
そう、仕事をさっきまでしていたしばっち、かれこれ2年以上ぶりちゃうかな。
変わらんな!と、私は言いましたが、私はもしかしたら老けたかもな。店前のポスター。
ほんまや、大和牛て書いてあるわ。
階段を上がって二階の席。
階段に、「奇跡の牛」と書いてあるポスター貼ってありました。
カトリック女子校出身の私らとしては、「なんや、奇跡の牛?お父さんとお母さんが何もせんで生まれた牛さんか?クローン牛かね」というようなことなど話して着席。
みたことのない部位なども注文してみて、たんまり頼みました。
私が普段はあまり食べないアカセンも。
みたことがないヤンていう部位も。
なんや、ヤンて。
ヤン・ウェンリーか?と言いいつヤンも頼む。
上ハラミて頼んでみたら、上は今はなくて、普通のはある、と言われ、この普通のも激ウマ。
ヤンていうのは、ハチノスとどこかの間の部位なんやて、よく見るとハチノスぽい模様にデコボコしてるパーツもありました。
お店的にも、ヤンを置いてる店は本気の店!と、強く押していました。
私的には、この日はこれが一番好きな味でした。
ジュー。これが、ヤンとミノとウルテやね。
どれもめっちゃ美味しかったです。
なんか、焼肉がホルモンやと、気持ち的にカロリー0、罪悪感がない感じがします。
なんかわからんけど。こちらが大和牛のロース。
せっかくの大和牛なので、しばっち言って食べてみました。
率直にいうと、ホルモン好きなので、ロースが肉肉しすぎて、まぁ、美味しいけどな、という感じでした。
結構脂のない赤い肉の味がし、その上で全然硬くないので、上等なんやろな、と思いました。
私はホルモンではない肉の部位なら、個人的な好みとしては、もうちょい品の無いこってりした脂の強い肉が好きですが、大和牛、良い肉なんやな、というのは伝わって来ました。
茶碗ご飯とキムチとウーロン茶で、完。
こんな店吉田、満足しました。それから、鶴橋を少し歩いて、豚足と、昔からずっと気になっていたドングリのムと、セロリのキムチを買い、帰路。
どこかでお茶する?言うて、うちにしばっちを拐かして、家でお茶しました。
巨匠が前に光明寺に行って買ってきていた辻利のクッキーを勝手に開けて、しばっちに勧めました。
しばっちが何げなく風に、ふと、もっと歳行ったらさ、ヨーロッパとか、また一緒にいつか旅行に行きたいな、と、言ってくれたことが、嬉しく、とっても良い考えに思えて、そやな、絶対行こな、と、言いました。
暗くなる頃、駅前にて解散。
「人の一生というのは、大したものではない、他人の人生にインパクトを与えるということを除けば。」ちょうど、ある知り合いが、スピーチの中で引用していた言葉だったのですが、アフリカ系の人ではじめてのメジャーリーガーが言った言葉だそうです。
人生もそろそろ折り返し地点に差し掛かる年頃、他人の人生に一体どんなインパクトを与えられるもんやろか、と、ふと思ったりもします。それに引き換え、しばっちは私の今までの一生にそりゃインパクトを与えてきたことは間違いなく、ねこさんももーちゃんもそうやし、中学高校の頃の友人ていうのは、私の人格形成に影響が大きくあったことよなぁ、と思って、しみじみします。
まぁ、しばっちは、もっと大事なことをご自分の一生の中で成し遂げていると思いますが、一応、念のため。
ある時、神を信じるある友人から、絶対的な神ではなくて、自分の良心みたいな不安定なものに従って生きていくのは不安にならないのか、という質問をされた時に、答えて、自分でそやねん、と思ったのですが、自分の良心ていうのは、変わるかもしれない不安定なものではなくて、もう変えられない既に過ぎた自分の過去に基づいた確固としたもので、もちろんこれからある部分は変わるかもしれないけれど、割とそんなに簡単に変わらないと思っているのです。
その、簡単に変わらない部分にインパクトを与えたのは、しばっちだったり、播州というところだったり、カトリックの女子校生活だったり、その後の学生生活や会社生活だったりするのかもしれない、と、思った年の瀬。
もうすぐ所謂不惑。
友達もまた私の一部。
これからも末永くよろしくです。